猫を起こさないように
日: <span>2005年9月25日</span>
日: 2005年9月25日

生きながら萌えゲーに葬られ(4)

 扉を開いた途端、開栓後に放置しすぎてビネガーと化したワインのような、何かを拭いた後に洗浄されずに醗酵した雑巾の湿気のような、上田保春に括約筋を思わず引き締めさせるあの臭気が鼻腔を刺激した。それはしかし、彼に不快だけをもたらすわけではなかった。上田保春は萌えゲーおたく的ではないふるまいを自身に強いているとは言いながら、その魂の所在は一般人の暮らす住所からははるかに遠い。その臭いを嗅いだ瞬間の彼の感情を表現するとすれば、「暗雲の下、銃弾の雨の中を駆けに駆け、塹壕に転がり落ちたときの安堵」とでもなるだろうか。
 週末の夜、彼は萌えゲーを愛好する仲間たちとマンションの一室で集まりを持つ。上田保春は多い月には十本程度の萌えゲーを購入するのだが、そのくらいの数では実際のところこの流れの速い場所で単純に現状へ追いつき続けることすら難しい。萌えゲーおたくのする創作物への態度をその傾向が無い者たちに説明するのが難しいと感じたなら、「それはまるで増えすぎたイナゴが穀類に群がるあの映像に酷似している」と答えればよろしい。一つの対象を偏執的な執拗さでもって原型を止めぬまでに噛んで噛んで噛み尽くして、その対象が自分たちの重みを支えきれないほど弱ってしまったなら、次の餌場を求めて集団で移動を開始する、あらゆる有機物を殲滅させずにはおかぬ、あのイナゴのやり方そのものである。つまり、この場所の流れを異様に速いものにしているのは彼ら自身の態度に他ならないのだが、そんな説明で恥じ入るほど彼らの抱える餓えは生やさしいものではない。萌えゲーを摂取し続けることができなければもぐらのように、誇張ではなく彼らの精神は死ぬのである。
 萌えゲーはおたく文化の中では傍流的な位置にあるためか、ときにアニメなど他のおたく文化の流行を色濃く反映する傾向がある。つまりパロディやオマージュの様相を呈することが頻繁なので、他の傍流ではない場所からの尽きぬインプットが、真の意味で、あるいはイナゴのように、萌えゲーを楽しむには不可欠であった。また、パロディやオマージュという方法論で形成されたはずの作品のさらにパロディとオマージュから成る商業目的ではない冊子の実在なども考慮に入れると、もはや個人のみで萌えゲーおたくを続けていくことは物理的に不可能であるとさえ言えた。例の大学職員はこの集まりを「受動おたくにならないための勉強会」と称したが、どうにもそれは「挿入しないための童貞堅持会」のように聞こえてしようがない。その集まりの中で上田保春はしばしば、受動おたくの典型例として揶揄された。その最たる理由としていつも指摘を受けるのは、商業目的ではない冊子だけを展示・販売する会合が年に何回か全国局地で開催されるのだが、それらへ参加するために仕事を休む勇気を彼が持たないことだった。大学職員は萌えゲーのために仕事を休むことを一線にしているし、上田保春は萌えゲーのために仕事を休まないことを一線にしているのだから、この話はどこまで突き詰めても平行線をたどるに違いなく、しかし会合から持ち帰られた冊子を彼は切実に必要としているので、この話題を持ち出される際はいつも視線を伏せてもごもごと自己卑下の言葉を繰り返すしかなかった。自分を下げてみせさえすれば、たいていの場は嘲弄ぐらいの恥辱で穏便に収束する。すでに人生の半分以上を二次元性愛に捧げる上田保春が獲得した、いじましい処世術であった。
 「要は、人類が成人しても無毛な、幼形成熟の生物だということを考慮すべきなんだと思います。幼形であればあるほどぼくたちが欲情を感じるのは、何も全く異常なことではなくて、神の本道を外れたことではなくて、生物学的視座から本能の裏打ちを、つまり神のお墨付きをもらっているとも言えるのではないでしょうか。自然の摂理と反した文化行動がその不自然さにも関わらず何かのはずみに定着してしまうことは、民族学からの実例を引くまでもなく明々白々としていて、いま現在あるような幼形を愛することを自身の確かな一部として表明してしまうことへの忌避は、そういった不自然、本来は採択されるべきではなかった文化行動の生きた実例なのではないでしょうか」
 誰かが部屋の中で話をしている。その声音は、未だ他人に届こうとする意志を含んでいたので、萌えゲーおたくがするように自閉的には響いていなかった。上田保春が声の主を確認しようと室内へ歩みを進めると、鯨飲馬食の四字熟語が全く比喩的に響かないほどの勢いで、太った大男がビールを飲み干しているのが目に入った。フローリングの床にはすでに十数本の空き缶が転がっている。
 彼――太田総司はこの3LDKのマンションの住人であり、所有者である。上田保春と同年代のはずなのだが、働いてはいない。親元から月に数十万円の仕送りを得て、それで暮らしている。太田総司の実家は東北地方にある素封家らしいが、ふんだんな仕送りと萌えゲーとコンビニとインターネットのおかげで、このマンションの一室はどうやら彼の両親にとって息子を世間から閉じこめておく呈の良い座敷牢と化しているようであった。太田総司の社会的身分は本人の言を信じるならば大学生とのことだったが、どこの大学であるかや何を専攻しているかの話題になると彼は突然聴覚障害に陥るので、あきらめというよりも優しさからその質問を投げかけるのをいつか止めてしまった。首筋と下腹へ衣服に隠しきれず寄った脂肪の重なりから、彼の容姿は一見まるでアザラシのように見えた。その原因が飲酒と宅配ピザと大量の萌えゲーであることは明らかだった。上田保春は太田総司が酩酊状態以外にあるのを見たことがない。彼を見るとき、何かに気づかないために生きるというのはいったいどれほどの苦しみなのだろうと想像する。それを滑稽だと笑う権利は誰にもあるまい。夜を迎えるために萌えゲーをし、朝を待つために酩酊する。人生とは、すべからくそういうものなのかも知れないのだから。
 どうやら手持ちを飲み尽くしたらしい太田総司は、いま現実に戻ってきたかのようにゆっくりと左右へ首を振り、どんよりとした目で上田保春を見た。そして、コンビニの袋に下げてきたビールを手渡す隙もあればこそ、ほとんど横殴りにひったくって、全く冷えていないのにも頓着せずにごくごくと飲み干し始めた。その有り様は会社帰りでスーツに身を包んでいる上田保春の、萌えゲーおたくへ向けて補正されきっていない感覚から見て全く尋常のようには映らず、何かしら前世の因業という言葉さえ想起させるような、文字通りの醜態であった。太田総司の体表からはとめどなく汗が吹きだしては伝い流れており、彼の座っている床の周辺には誇張表現ではない水たまりが薄く広がっているほどだった。冷蔵庫と床の隙間からゴキブリがかさかさと走って来、その水たまりの岸辺で停止すると触覚を上下に激しく動かした。やがて触覚の先端はうなだれるように水たまりに浸かり、ゴキブリは動かなくなった。太田総司の表皮を流れる汗はわずかに透明ではなく、伝い流れるその速度も粘度を伴っているかのようにじりじりとしており、ウェットティッシュで吊革やドアノブを拭くことを習慣にしている眼鏡の同僚が見たりすれば、即座に悲鳴をあげて玄関から飛び出ていくだろうことは必定だった。それはまるで理科の実験で行う濾過装置の逆転版のようなもので、荒い砂利からきめ細かい砂へのグラデーションが泥水を真水へと濾過する過程を遡行し、きれいな物質が太田総司の体内を経ると全く汚染された何かになって出てきてしまうのだった。上田保春だって汗はかく。排尿も排便もする。射精についてはすでに述べた。それらは人間であることの避けられない崇高な摂理であるとは思うが、この太田総司の場合、すべての行為が肯定不可能なものとして、完膚なきまでに戯画化されてしまうのである。
 このプロセスこそが、萌えゲーおたくの本質なのではないか。誰もが当たり前にする人間的営為の持つ聖性をまるで悪魔が神を穢すためにしてみせる演技の如く、目を背けたいものとして貶めるのである。萌えゲーおたくであることの異様さは何も特殊な行動によるものではないと、太田総司に会う度に上田保春は身の引き締まる思いで自戒する。つまり表層を忠実にトレースするだけでは、全く足りないということだ。一般人がする行動の質を貶めることなく繰り返さなければ、萌えゲーおたく同定を避けることはできないのである。会合の場所として太田総司のマンションを彼が指定するのも、職場からほどよく遠いという理由だけではなく、その自戒を再確認し続けるという目的もある。悟りとは一瞬で別の次元にステージを移すことを意味しない。繰り返さなければそれは当たり前の日常へといとも簡単に変質してしまうことを上田保春と同じ実感で理解しているのは、現代において仏教の高僧くらいであろう。
 そんな物思いを知らぬふうで、部屋の奥から言葉は続いている。それは関心のためか、あるいは自負のためか。
 「しかし、これだけではまだ説明がつきません。だって、ぼくたちが現実の幼形よりも二次元の図画として描かれた幼形の方に、より強く心引かれることの説明がついていません。ですが、人間の心の構造の基を考えれば、即座に首肯できる理由があるのです。人間は本能を失ってしまっているとよく言われますが、本能的な精神の動きは確かにまだ残存しているのです。それは意味を付加するという作業であり、あまりにも積極的、いや、自動的に行われているので、私たち自身さえ気づかないほどなのです。その傾向が鰯の頭を神にする。ぼくが今朝蹴飛ばした猫が夕方ぼくに自転車事故をもたらしたように、客観的・科学的例証に個人の意味づけは常に優先するのです。この話でぼくは何を証明したのでしょう。本来は曲線と直線の集合に過ぎない、意味の無いパーツのつらなりである二次元上の図画の方が、個人の意味づけによって組み立てられているゆえに、科学的にはより強い、疑いようのない実在であるはずの現実の少女よりも、萌えゲーに登場する少女の方がはるかにぼくたちにとって魅力的に映ってしまうということを証明したのです!」
 学校の屋上で煙草を吸ったりする程度で解決できるなら、授業をボイコットし、煙草を吸った方がいい。それはいずれ、社会という名前の大きなテーゼに巻き込まれてゆくことへのアンチとしての示威行為に過ぎず、押し返したとして、押し返されたとして、それらは依然お互いが同じ軸線上にあることを自覚したじゃれあいに過ぎない。萌えゲーおたくである上田保春が学生時代に体験したのは、全く意図せぬジンテーゼの恐怖であった。一度たりともそれを望んだことは無かったというのに、従来の軸線上で押した押さぬの小競り合いを繰り返す人々からは、彼の立ち位置はまるで不可視だったのだ。この発言の主はそれがわかっているのだろうか。あるいは上田保春が感じた意図せぬジンテーゼとは全く別の思想をこの声の主は確立しているのか。
 それにしても――萌えゲーおたくの性向を推理小説のように推理してみせたところで全く意味が無いのになあ。上田保春は自身の繰り言を轟音とともに棚上げして、昏い感慨を抱く。推理小説の犯罪をそのまま現実に移し替えた事件が待てど暮らせど発生しないのは、それが現実を忠実に描くことや人間存在に真摯であることを目的としていないからである。発言の主が自説の中で展開しているような、不注意や不運による事故の原因を四足獣の呪いに求めるような、自然界の中では人間だけのする、自身を納得させる以外の効果は無い意味づけ作業に過ぎない。しかし、わかっていてもやめられないから、人はそれを物語に仮託するのだろうと上田保春は思う。本質的に、即ち科学的には無意味な虚構を量産することが、逆説的に人間の証明になるのである。
 上田保春の信念をゆらがせるほど確信的かつ露悪的な萌えゲーおたく、件の大学職員、有島浩二は、彼が室内に入ってきたことへ気づいているだろうにも関わらず、一瞥すら寄越さずにアニメに登場するロボット群をコマとして戦わせる軍人将棋式テレビゲームに没入し続けていた。もしくは、没入するふりの演技を続けていたのか。上田保春が声をかけるべきかどうか逡巡していると突如、有島浩二は何の予備動作も無しにぐるりと顔だけをこちらへ向けて、表情筋を痙攣させるような素振りを見せる。微笑んでいるつもりなのだ。しかし、薄暗い室内でモニターからの光源に照らされたその表情は、相手の気を安らわせるどころではない、ホラー映画の一場面を視聴する効果をしか生み出さなかった。まだ完全におたくの領域へと感覚を適応させきれていなかったスーツ姿の上田保春は、同朋のするその異様な仕草にほとんど足下を失うような目眩を感じた。
 おたくと呼ばれる人々の多くが予備動作の無い動きをすることや異様な早口だったりすることは、よく一般人の側から指摘を受けるところだが、彼には最近その理由がわかってきたように思う。動作や発話に前駆する空間的・時間的「間」は、相手に配慮する目的でなされているのだ。文化的躊躇とも言うべき、他人の実在を認めるがゆえの意識的空白なのである。一歳前後の赤ん坊には予備動作がほとんど無く、大人は気づかぬうちに眼鏡を奪われたり、頬を張られたりしてしまう。赤ん坊は相手に対する意識も自分に対する意識も未だ確立の途上にあるので、文化的躊躇、他人への配慮の「間」が無いせいで、大人は赤ん坊の行動を受け入れるための情報をあらかじめ与えられない。人の発するものはすべて他者へ届こうとする意志を伴っている。だが、有島浩二にはまるで赤ん坊のようにそれが無い。彼の早口と予備動作を伴わないマリオネットのような動きは、赤ん坊の配慮の無さと同義なのである。
 有島浩二はコントローラーから手を離さないまま部屋の隅に向かって顎をしゃくり、「その鞄の中に入っているから、拾っていくといいよ。犬のようにね」と一般人ならばリスニングの極めて困難だろう早口で言った後、何が可笑しかったのだろう、映画「アマデウス」のモーツァルトの笑いにおたく色を濃く反映したような笑いを短く神経に笑った。上田保春は軽く頭を下げると、手垢でさらになめされてしまったように赤黒い光沢を放つ革鞄から、無地のメディアに直接極太マッキーで萌えゲーのタイトルが書かれたDVDや、彼のよく知っている萌えゲーの少女がその本来のデザイナーではない人物の手によって描かれている冊子を、のろのろと自分の鞄へと移し替え始めた。期待に胸と男性が膨らんでいくのを押さえきれない上田保春が自己嫌悪を越えた背徳的悦楽の微笑を口元に浮かべると同時に、有島浩二が予備動作を伴わない動きで再び彼の方を向き、「そうそう紹介するのを忘れていたが」と異様な早口で告げた。それはあまりに伝達の意思を放棄した早口だったので、「蕭々蒋介石尾張tiger」のように聞こえた。
 有島浩二が顎をしゃくった先には驚いたことに、一人の少年が膝を抱えて座っていたのである。すわ、略取監禁、などという単語が脳裏をよぎるのは萌えゲーおたく的小心の極みである。聞けば少年は十四歳、インターネット上の掲示板で知り合いになったのだという。「なかなか見どころのあるやつなんだ」と有島浩二が異様な早口で言い、それは「中出し水戸黄門R膣難産」のように聞こえ、少年がその言葉にもじもじと身をよじるのを見て、上田保春は高まった気持ちが急速に萎えていくのを押さえることができなかった。インターネットの功罪が叫ばれる中、上田保春に言わせればそれは明々白々としており、たった一つしかない。これまでの人類の歴史の中ではありえなかったような出会いを誘発し、それによって一種異様な人間関係の化学反応が発生してしまうことである。個人が自室に引きこもってできることはたかが知れているが、もし引きこもりの個人が複数集まってしまったりしたら、それが集団自殺のような積極性を持ったとして何の不思議もない。萌えゲーおたくであることを恥じた三十代も半ばを迎えようとしている会社員と、萌えゲーおたくであることを絶望や恐怖ではなく自負として捉えている十四歳の少年。本来なら出会うはずのない二人が出会い、何かお互いにとって有益な結果を期待できるほど、上田保春は人生の生み出す善の効果に希望を失ってしまっている。
 有島浩二がまるで何事も無かったかのようにゲーム画面へと向き直り、太田総司が座ったままの姿勢でうとうとと居眠りを始め、上田保春が何やら昏い目をして黙りこんでしまったのを見て、少年は自責を感じたのか空間を音声で満たせば気まずさを調伏できると信じるように、萌えゲーおたくの萌芽を予感させる痛ましい軽繰的な様子で話を続けた。
 「最近は友だちから薦められてハマってるジャニス・ジョプリンをiPodで聞きながら、萌えゲーをするのが最高に気分いいんです。生きながらブルースに葬られ――ぼくが思うのはジャニスがブルースに選ばれて、そうして選ばれた代償としてブルースを歌っている以外はクスリ漬けの廃人だったみたいにぼくも萌えゲーに選ばれて、萌えゲー葬られているんじゃないかって感じることがあるんです。学校も、両親も、友人も、誰も、萌えゲーほどぼくの命を充実させてくれるものは無いんですから!」
 少年らしい強い思いこみに頬を紅潮させるその様子と、その甘い自負とははるかに遠い現実そのものの感覚だったにはせよ、何とはなしに感じていた違和感を言葉にして提出されてしまったことに上田保春はかすかな感動を覚え――そして、憐れみを禁じ得なかった。このまま聞いてないふりで黙ってさえいれば、少年は再びこの陰鬱な会合を訪れようとは考えないだろう。それがこの場でできる、少年に対する本当の優しさだったはずだ。しかし、フローリングの床に散乱した銘柄の違う無数のビールの空き缶と、薄暗い室内でおたく仲間の肩越しに明滅を繰り返すモニターとが、彼の中にあるsentimentalismを刺激したのかもしれなかった。うたた寝から目を覚ました太田総司が、新たなビールのプルトップを引く音が背後で聞こえた。その濡れた音に促されるように上田保春は、やめておけ、やめておけ、と内側から囁きかける理性の声を聞こえないふりで、少年に対して諭すように話しかけ始めた……